あれは1995年の冬のことでした。僕はその頃、神戸の洋菓子店でパティシエの修行をしていました。
去年の12月のクリスマスシーズンから年が明けて正月を過ぎてもほとんど休みなしで、しかも毎日14、15時間労働で体力的にも精神的にもかなり疲れていました。
そしてようやく貰えた休みが1月17日。もう一月も半ばでした。そこでたった一日の休みだったけど、実家に帰って休もうと思いました。同じアパートの隣に住んでいる優しいおばちゃんに挨拶をしてお土産を買ってくる約束をしていました。16日の仕事を終えて疲れていたのですが、実家の家で落ち着きたいと思っていたので無理をして16日の夜中にアパートを出て名神高速を飛ばして帰ってきたのでした。17日は先月に亡くなった祖母の49日だったので、ちょうどお参りができたのです。
愛知の実家に着いたのが確か午前0時ぐらいだったと思います。その日は親しい友人の家に遊びに行って地元の友達と徹夜で遊んでいました。夜が明ける頃、さすがに溜まっていた仕事の疲れからウトウトしていた時、運命の瞬間がやってきました。友達の家の柱がミシッと音がしてグラグラと揺れました。「あ!地震だ!」結構強い揺れでした。早速テレビで地震の速報を見てみた。そうしたら何と、神戸で大地震のニュース!最初はそんなに大きな地震だとは夢にも思っていませんでした。でも刻々と伝えられる緊迫したニュース。死者の数がどんどん増えていく・・。働いていた神戸の職場に電話してみたけど混線して通じない。試しに自分のアパートに電話してみたけどやっぱり通じない。大変なことになっていることがようやく分かってきました。
朝、僕の住んでいる西宮の見慣れた駅前が火事で燃え上がっている光景をテレビニュースで見て唖然としていました。阪神高速が無残に倒れ、陥没してバスが宙ぶらりんになっていました。僕のアパートはあのバスが折れ目に引っかかって落ちそうになっている所からわずか1キロメートルの所にあったのです。あの倒れた高速道路の下を通って帰ってきたのでした。実に震災の8時間前でした。
電話での連絡が完全に遮断されていました。愛知から神戸への交通網も破壊されていたので車での神戸入りはできませんでした。電車で甲子園の近くまで行き、そこから歩いてアパートまで行きました。半日ぐらい歩き続けました。自衛隊の装甲車が走り、見慣れた光景はめちゃくちゃに壊れ、瓦礫の山になっていました。別世界でした。まるで夢でも見ているようでした。自分が帰ってたった1週間後に戻ってきたら町はこんなに変わり果てていたのです。そして何とかアパートに辿り着いてその前で僕は体が硬直しました。なんと僕のアパートも跡形もなく全壊していたのです・・。辺り一面瓦礫の山でした。近所の人をようやく見つけ震災の凄まじさを初めて聞きました。僕のアパートに住んでいたおばちゃんは即死でした・・。あの地震は直下型の揺れだったので、逃げようと思っても間に合わなかったといいます。幾ら僕でもあの部屋で寝ていたら助からなかったでしょう。
会社では僕は死んだことになってました。あの様子では助からなかったと判断されていました。ひょっこり現れた僕を見て皆目を丸くしてました。
1ヵ月後、アパートの瓦礫の撤去作業があったので、貴重品や思い出の品を取り出そうと現場に立ち合わせました。そうしたら、床が陥没して下まで落下していた畳に密着した布団が出てきました。机は真っ二つに割れ、家電製品はメチャメチャに壊れていました。ここで寝ていたら間違いなく僕は死んでいただろう・・・。隣に住んでいたおばちゃんとはあの挨拶が最後のお別れになってしまいました・・。
時が経ち、あの命拾いの体験は何だったのか、毎年1月17日になると考えさせられます。死んだ僕の祖母が49日に合わせて僕を呼んでくれたのだろうか?虫の知らせとは、こういうことなのかもしれない。
今、僕がこうして生きているのも奇跡なのです。。。



阪神大震災の体験

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送